アオ

人生うまくいってるのかいってないのかよくわからない20代女子の独り言

精神病棟のプロポーズ

愛する夫が母の交通事故死の後に精神疾患を発症したことが原因で、彼との離別を選択した女性が撮る精神病棟内でのドキュメンタリー。

 

<以下ネタバレ含みます>

 

患者を結婚させ、感情的な繋がりや性的欲求を満たすことによって患者が良い方向に変化してくれることを狙った大胆なプロジェクト。

結婚に適する患者を、男性スタッフ、女性スタッフに別れて厳しく選んでいく。病棟では当たり前に行う患者に対する評価だが、こうして見ると医療者と患者との歪な力関係が際立つ。医療者としては当然必要だと思ってしまう一方で、患者側の立場から見ればどれほど残酷なことだろうか。思考をし感情をもつ人間であるのに、死ぬまで自分の人生の決定権を、赤の他人に握られてしまう。我々は、彼らに比べてそれほど優れた人間なのだろうか?

 

患者さんの病状や病名が明言されていない前半では、私はこの人はなんの疾患だろうか?と考えると同時に、病名がないが故に患者さんをより人間として見ていることに気がついた。しかし、やがて状況がわかってくると、分析的に彼らをみてしまう。医療者の立場で、彼らを友人として見ることがいかに難しいか。

 

今日集まって人の中で、気になる人はいたか?という問いに対して、まっすぐな眼差しで、患者じゃなくてもいい?あなた。あなたを愛している。
と言われるシーンや、カップル候補の女性から
子どもを産みたいから結婚がしたい、子どもは生まれたら施設に預ける、とにかく子どもを産みたいと言われるシーンでは、彼らを友人としてみていた視界にサーっと幕がかかり、医師として武装したくなってしまった。
医師は、否定も肯定もせずに受け止め、相手から質問を聞き出したら速やかに面談は終わる。結論を出さないことによる安定化を図る。私も早くできるようにならなければいけない。

 

また、精神科患者と家族との隔絶も短くはあったが鮮烈に描かれていた。結婚候補の女性は、家族からの承認が下りずに(イランでは成人女性でも父親の許可が必要なのか?)、結局このプログラムは頓挫を余儀なくされる。

「そんな奴はこの家にはいない。_彼女はもう死んだことになっている。」

シーンが変わり、花婿候補と細やかな幸せな時間を過ごす彼女が再度映されたとき、家族に存在を消された彼女の姿がとても切なく思えた。しかし、今考えてみると、これは希望なのかもしれない。家族に否定され、存在を消されたとしても、彼女は確かに愛を感じ、育むことができたのだ。結婚は否定されても、二人の育んでいる愛する気持ちは二人のものだ。このプロジェクトは頓挫で終わってしまったが、医師の試みは無駄であっただろうか?

医師がこの一件無謀なプロジェクトを行おうとしたことで、患者間、医療者と患者、医療者間に愛を伴う激しい感情の揺れが起き、それぞれの人生に痛みを伴う生きた証が残ったのではないかなと思う。

 

ドキュメンタリーを通してみて、最も私の感情を重くひきづらせるのは、患者でも医師でもなく、撮影者の女性である。彼女が自身の癒えることのない傷をほじくり返す作業を、共にしているような気分に時折させられた。

愛し愛された人が、今は自分が撮影する大勢の名もなき患者たちの一員としてどこかにいるのだろうという恐怖、そうさせてしまった責任は自分にもあるという罪悪感、そしてそうするしかなかったという悲しみ。一度は愛の輪郭を確信を持って掴んだからこその愛に対する失望がある。しかし、私の考えでは、彼女はまだ愛を信じているんだと思う。そうでなければ、このようなドキュメンタリーは撮影できない。

精神疾患を抱えながらも結婚したいというカップルを冷静に撮影しながら、彼女は何を考えたのだろう。自分の感じていた愛を否定するか、彼らの精神を否定するかしか、彼女には受け入れる術はない。でも彼女はきっとその間で揺れながらも、一度掴んだ愛の輪郭を手探りでまた探しているのではないだろうか。