愛するということ THE ART OF LOVING エーリッヒ・フロム 鈴木晶=訳
もう理由は忘れるような些細なことで彼に喧嘩をふっかけてしまうことが続いて、落ち込んでいた頃に出会った一冊。ちょうど27歳の誕生日を迎えたこともあって、せっかく年をとるんだから、愛を知る人になりたいと思って読み始めた。
愛は、自然に発生するものではなくて、技術であるということ。
全ての人に対して、謙虚さに基づく理性をもって向き合うことで、人を愛することができる。
愛は、配慮、責任、尊重、知の四つからなるという。
配慮とは、生命と成長を積極的に気にかけること。
責任とは、他人の要求に応じられ、応じる用意があるということ。
尊重とは、人間のありのままの姿を見て、その人自身のための成長を願うこと。
自分のためにその人を利用することはできないので、自分自身が自由でなければ人を尊重することはできない。
知とは、自分自身に対する関心を超越して、相手の立場に立ってその人を見ること。つまり、その人のレンズでその人を見ること。
この四つを実践し、愛の行為において、与え、相手の内部へと入っていく行為において、相手と自分との両方を、そして人間を発見する。
私は愛は「意志」であると思っていた。愛があるから愛せるのではなくて、愛すると決めたから愛せるのではないかと。
この本のタイトルが「THE ART OF LOVE」ではなく、「THE ART OF LOVING」であるところに注目したい。
私は、愛は二者の間の相互作用だと思っていたのだが、この本で語られる愛はいかにも一方的なのである。いくらこの本の言うように人を愛しても、向こうが同じようにこちらを愛してくれなくては、いつまでたっても「一体化」できないのではないか、と思ってしまう。
筆者はそこで、「信じること」ついて語るのだ。
「信じること」とは、最終的には相手が自分を愛してくれることを信じるのだが、それは自分の愛が相手の中に愛を生み出す力を持っていることを信じる、つまり自分に対する自信なのだ。
私はここで、愛することの難しさに気づいた。私が愛せるのは、相手に対する無責任な期待があるからで、決して自分の愛についての自信ではない。
誰かを思って不安になるとき、それは自分の恋愛に対する表面的な自信のなさを嘆くのではなく、自分の相手に対する向き合い方を問いただす時なのかもしれない。
自信を持てと言う一方で、筆者はナルシズムを脱却することが必須であると言う。謙虚さと言う感情の基盤の上に存在する理性を行使して客観的に世界を、他者をみて判断することなしには、愛することはできない。しかし、そのように客観的に自分自身を振り返ったときに、自分の愛について自信がある人は果たして何人いるのだろうか。ナルシズムも捨て、卑屈さも捨てて、ニュートラルな状態で客観的に自分を、相手を見つめる。
愛するための技術をとても理路整然と説明しているが、全てを総合して俯瞰して見てみると、相当な人格者になることが求められているように思う。
ローマは1日にして成らず。どんなことも、習ったからといってすぐに実践できるのではない。うまくいかないながらに、試行錯誤しながら愛することを続けよう。
人を愛せるようになるためには、人生はあまりにも短い。
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本筋とは少しずれるが、覚えておきたいと思ったのが、「一体化」に関連する現代社会の「平等」の定義だ。本来の一神教の世界での平等とは、「我々は皆神の子であり、皆同じひとりの人間である」という意味で、個性の発達のための一条件であった。
社会主義思想家たちも、啓蒙主義哲学者たちの流れを汲んで、搾取の廃止、つまり利用の仕方が残虐であれ人道的であれ、人間が人間を利用することの廃絶を平等と定義した。
これは現代社会の平等=等しい、同一とは異なるものである。社会制度などを考える上では、「同一」を基準にする必要もあるだろうが、それも全て全ての人間間での搾取をなくすため、という原点を忘れないようにしたい。