学生との対話 小林秀雄
私として生まれてきた、私としてしか生まれ得なかったこの人生において、私としてどう生きるのか何をなすのか。
小林秀雄の名評論もまた、自分とは何かを模索し思案し続けた産物であった。
質問というのは、切実でなくては行けない。社会情勢だとか政治だとかについての意見ではなく、自分がどう生きるかというところでさっぱ詰まっての問いかけこそがいい質問。
いい質問をした時点で、答えは得なくても良い。
歴史を知るときに、その年表をしるだけでなく、その時その時代の人は何を考えるか
時代や人種が違っても同じ人間なのだから想像することは難しいことではない。
自分なら、ではなく、透明な自分になって、語り手の心に耳をすませる
その中に自分が見えてくる。
このような態度で歴史や本を読むことは、そのものが生々しく生きて感じられて面白いだろう。
無私になると他人が自分を映す鏡となるというのはよくわからなかった。
なぜ無私になると自分が見えるのだろうか。
しかしそこに彼が小説家ではなく評論家になっていった理由があるのだろう。
印象的だったのは、評論とは批判することではなく褒めること。褒めることで次につながるということ。私はどちらかというと批判することで次につながると思っていたので意外だった。
一つの物事の中から本当にいいところを見抜けということなのだろうか。
共感できたのは、主張しようと思って主張したことは自分ではない。隠そうとしても匂ってしまうことそのものが自分なのであるということ。
私は主張しなければ、意見を持たなければとなりがちなのでこの言葉は心に置いておきたい。