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人生うまくいってるのかいってないのかよくわからない20代女子の独り言

読書:教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化

留学生活中、宗教と宗教への態度の違いを感じることが多かったので、浅く広く宗教を知る一冊目としてよく挙げられる本書を読んでみた。

 

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私には明確な信仰対象はないし、言うなれば「無宗教」であると思っていた。けれども、この本を読んで自分は確かに日本の「薄い宗教」の文化に浸かって生きていて、信仰という形ではなくとも私の考え方や価値観には宗教の影響はしっかりあることに気がついた。

 

そもそも仏教は本来「無神教」であり、神への信仰とは距離を置いて「悟り」の境地を目指すものであり、このことが私がいまいちキリスト教イスラム教を信仰している人の気持ちが想像しにくい原因でもあるのかもしれない。また、宗教というと「心の内面」をイメージしていたが、ヒンドゥー教イスラム教は社会システムそのものを宗教の内部に含んでいるということも忘れないようにしたい。信仰の強固さ、頑固さに見えているものは、彼らの社会システムに反するものがゆえなのかもしれないという視点も持っていたい。

 

それぞれの宗教家の言葉で印象的であったのは、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(善人は結果的に悪人にならないで済んだ幸運な人である。人が悪を行う状況に陥るか陥らないかは今日軍次第なところがあり、当人の意志とは無関係であるからこそ、善人が極楽に行けるものなら、悪人がいけて当然なのだ)という言葉だ。全て同意できるかというと議論の余地はあるだろうが、今の分断社会にかけている視点なような気がした。

 

 

以下本書の内容の気になったところめも。

 

宗教には”薄い宗教”と”濃い宗教”がある。

文化としての宗教(社会全般に行き渡った宗教的な思考と習慣の総体)と、

信仰としての宗教(個人の内面の問題)

 

ユダヤ教キリスト教イスラム

 

紀元前2000年紀に、パレスチナのあたりにいたマイナーな部族が、同じ神様を拝み部族連合を作っていた。特徴として、「神はひとり」であり、「社会正義を求める神」であるということだ。

紀元前1世紀にユダヤ教からキリスト教が分岐した、一神教ではあるが、「救世主」という存在を信じ、イエスキリストを救世主として仰ぐ信仰である。

イスラム教は700年ごろにムハンマドによって開かれた宗教だが、ムハンマドはあくまで神のメッセージを伝える人として神格化はされず、神の言葉を記した「クルアーン」がキリスト教のイエスのような信仰の対象となっている。

 

ユダヤ教は、613もの項目からなる戒律を守ることで神の正義を実践しようとする。死後の世界などの観念的な議論を重視しない点は、その後のキリスト教と異なる。

キリスト教は、規則から離れ、精神的な信仰を重視する。

イスラム教は、二宗教のどちらの要素も持っている。豚肉を食べないなどの具体的な規則を持つ一方で、それほど厳しくない。一方で、信仰の中心がキリスト教と同様に明確化されていることで、民族の垣根を超えて伝播しやすいという点がある。

イスラム教の特異な点は、キリスト教政教分離をし、倫理的、精神的な支柱としての役割を担ってきたのに対し、イスラム法(シャーリア)という方システムを整備して、法律や政治、結婚や離婚などの民放に当たるものまでカバーしているということだ。今日のイスラム諸国では西洋的な法体系を利用しているが、イスラム法は民間での慣行として根付いている。今日の西洋的な国家制度に対応する制度を備えており、摩擦やギャップが生じやすい。心の内面の信仰の問題ではなく、システムの問題であると捉えることで今日のイスラム問題の複雑さが見えてくる。

 

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教には開祖がなく、インド民族の古来からある信仰や儀礼の総体をヒンドゥー教徒してまとめているのだ。ヒンドゥー教多神教であるが、信者は今自分が拝んでいる神を宇宙の最高神として遇する。最高神は絶対的な存在であり、唯一神に近い存在である。つまり、多神教一神教紙一重である。

ヒンドゥー教のもう一つの特徴として、イスラムに似て内面的な信仰のみを司るのではなく、アルタ(実利もしくは政治)やカーマ(性愛や優美さ)などの世俗的なものも人生の目的として追求すること、つまり生活を総合的に司っていることだ。

 

日本の宗教と仏教

 

釈迦は無数の神々を信仰するヒンドゥー教の中で、インド各地自由思想家が誕生する時代に生まれた。彼は、伝統的な信仰とも、信仰の哲学的な理屈とも距離をとり、理屈や観念に溺れずに、雑念に囚われず「悟り」の境地に達することを目的とした。快楽でも苦行でもない、中道を目指すというものだ。仏教は、あらゆるものは相互関係(縁起)の中に存在し、全ては無実態であるとした。

仏教は本来、悟りタイ人のための修行道場として、戒律を厳しく守ることを求める宗教であった。

東南アジアなどのテーラワーダ仏教においては、修行者は200を超える戒律を守って暮らす。タイ仏教では、出家者は厳しい戒律を守り俗世から分離され、一般信徒は経済的に出家者を支えることで、その利益に預かることができる。

 

しかし、中国に伝わった段階で、家庭を棄てた人間を敬う習慣は根付かず、インド風の僧院生活は根付かなかった。また、自らの悟りを追求するばかりでは、他人に教えを説いて回った釈迦の本来のあり方に矛盾するという一種の開祖ルネサンス的な考えもあった。

日本では、徳川家などの厳格な統治機構により仏教の影響範囲が狭まり、伝統的な行事、信仰と合わさり葬式仏教化して言った。それでも、日本には仏教、儒教道教神道、民間宗教に加えて、〜道(花道、茶道、剣道、柔道)と言ったような〜道とつく精神的な訓戒を持っている習い事が多く、宗教の儀礼とほとんど区別がつかない。キリスト教イスラム教のような明確な信仰対象を持って暮らしている人に比べて、「無宗教」を自認する日本人は多いが、それでも我々の文化的慣行には、実際にはそのほかの宗教的振る舞いの多くと通じている部分があり、儀礼的な形を重視する面など、宗教的情念が社会にあることは確かであろう。

余談だが、「忠孝」は儒教由来の思想だが、中国や韓国では家庭を大事にする「孝」の方が重視されるのに対して、日本では武士文化に見られるように「忠」を重んじるようだ。