「論語の学校」入門編①
最近は自分の周りの人間関係のことで、自分がもっと成熟した大人だったらうまくいっただろうなということが多い。
冬季休暇に入ったこともあり、前から読みたいと思っていた「論語の学校」を読みながら心に留めておきたいものをメモしていく。
第一章
ー知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず
知的な人は迷いがなく、人格者は思うようにならないと嘆くことがない、そして勇気を持つ人は何事も恐れない。
うーん、思うようにならないと嘆いてばかりの私、反省。
ー子曰く、君子は器ならず
君子はそのありようが柔軟なものだという意味。
器のように用途が一つに限定されずに、柔軟に対応する人が君子だということ。
柔軟性っていうのは、思い通りにしたくなる気持ちとも通じてるし、状況や相手に合わせることが大事なんだなぁ。柔というのは2022の目標になりそう。
ー子曰く、君子は諸をを己に求む。小人は諸を人に求む。
(その結果が良くても悪くても)君子はそれを自分の責任として受け止める。小人は結果を人のせいにする。
第二章 大人社会の「秩序」とどう向き合うか
儒教の徳目
仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌
漢の時代に最も重視されていたのは、「孝」であり、「孝廉」と言って親孝行で清廉潔白な人を国家公務員にするほどだった。
孝・悌が根本であり、それが仁を作り、礼となり社会秩序を守るというものだ。
善悪の基準を超えた絶対的価値が「孝」にあった。
儒家集団は、血縁集団を中心とした古代社会において祖霊祭祀の術を取り仕切る集団であった。だからこそ、血縁や上下関係を守ることで秩序を保つことが儒教で重んじられた。
この章の著者は、孝が西欧から流れてきた個を尊重する考えとあい反するものであり、多くの若者が上に盲目的に従う「孝」に反感を感じるだろうと述べる。
(筆者がやたらと、少年こそ(少女より)親、特に父親に反抗して大人になるものだ」と性差を強調することにやや引っ掛かりを覚えるが。)
確かに家族や血縁関係が薄まる現代社会では孝は絶対的な価値観ではなくなってきている一方で、家族外の人間関係(職場や学校など)においてはいまだに孝悌の考えは根強いと感じる。
儒教の考えが根付いた日本では、孝悌なくして仁、礼、秩序が成り立つのかという不安がうっすらと社会を覆っているように感じる。先輩にタメ口を聞くやつは問題児だし、会社員は上司のいうことを聞かねばならない。
しかし、「孝」に絶対的価値がなくなった現代社会ではこのことが少なくない人の生きづらさにもつながっている。
筆者も述べるように、礼は守るべきもののために生まれた「形」であり、初めは人としての心のありようを守るものとして生まれた。仁を守るための礼であれば、孝悌以外の仁の源泉を見つけることができれば現代社会の考えと儒教が調和できるのではないか。