読書:教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化
留学生活中、宗教と宗教への態度の違いを感じることが多かったので、浅く広く宗教を知る一冊目としてよく挙げられる本書を読んでみた。
私には明確な信仰対象はないし、言うなれば「無宗教」であると思っていた。けれども、この本を読んで自分は確かに日本の「薄い宗教」の文化に浸かって生きていて、信仰という形ではなくとも私の考え方や価値観には宗教の影響はしっかりあることに気がついた。
そもそも仏教は本来「無神教」であり、神への信仰とは距離を置いて「悟り」の境地を目指すものであり、このことが私がいまいちキリスト教やイスラム教を信仰している人の気持ちが想像しにくい原因でもあるのかもしれない。また、宗教というと「心の内面」をイメージしていたが、ヒンドゥー教やイスラム教は社会システムそのものを宗教の内部に含んでいるということも忘れないようにしたい。信仰の強固さ、頑固さに見えているものは、彼らの社会システムに反するものがゆえなのかもしれないという視点も持っていたい。
それぞれの宗教家の言葉で印象的であったのは、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(善人は結果的に悪人にならないで済んだ幸運な人である。人が悪を行う状況に陥るか陥らないかは今日軍次第なところがあり、当人の意志とは無関係であるからこそ、善人が極楽に行けるものなら、悪人がいけて当然なのだ)という言葉だ。全て同意できるかというと議論の余地はあるだろうが、今の分断社会にかけている視点なような気がした。
以下本書の内容の気になったところめも。
宗教には”薄い宗教”と”濃い宗教”がある。
文化としての宗教(社会全般に行き渡った宗教的な思考と習慣の総体)と、
信仰としての宗教(個人の内面の問題)
紀元前2000年紀に、パレスチナのあたりにいたマイナーな部族が、同じ神様を拝み部族連合を作っていた。特徴として、「神はひとり」であり、「社会正義を求める神」であるということだ。
紀元前1世紀にユダヤ教からキリスト教が分岐した、一神教ではあるが、「救世主」という存在を信じ、イエスキリストを救世主として仰ぐ信仰である。
イスラム教は700年ごろにムハンマドによって開かれた宗教だが、ムハンマドはあくまで神のメッセージを伝える人として神格化はされず、神の言葉を記した「クルアーン」がキリスト教のイエスのような信仰の対象となっている。
ユダヤ教は、613もの項目からなる戒律を守ることで神の正義を実践しようとする。死後の世界などの観念的な議論を重視しない点は、その後のキリスト教と異なる。
キリスト教は、規則から離れ、精神的な信仰を重視する。
イスラム教は、二宗教のどちらの要素も持っている。豚肉を食べないなどの具体的な規則を持つ一方で、それほど厳しくない。一方で、信仰の中心がキリスト教と同様に明確化されていることで、民族の垣根を超えて伝播しやすいという点がある。
イスラム教の特異な点は、キリスト教が政教分離をし、倫理的、精神的な支柱としての役割を担ってきたのに対し、イスラム法(シャーリア)という方システムを整備して、法律や政治、結婚や離婚などの民放に当たるものまでカバーしているということだ。今日のイスラム諸国では西洋的な法体系を利用しているが、イスラム法は民間での慣行として根付いている。今日の西洋的な国家制度に対応する制度を備えており、摩擦やギャップが生じやすい。心の内面の信仰の問題ではなく、システムの問題であると捉えることで今日のイスラム問題の複雑さが見えてくる。
ヒンドゥー教には開祖がなく、インド民族の古来からある信仰や儀礼の総体をヒンドゥー教徒してまとめているのだ。ヒンドゥー教は多神教であるが、信者は今自分が拝んでいる神を宇宙の最高神として遇する。最高神は絶対的な存在であり、唯一神に近い存在である。つまり、多神教と一神教は紙一重である。
ヒンドゥー教のもう一つの特徴として、イスラムに似て内面的な信仰のみを司るのではなく、アルタ(実利もしくは政治)やカーマ(性愛や優美さ)などの世俗的なものも人生の目的として追求すること、つまり生活を総合的に司っていることだ。
日本の宗教と仏教
釈迦は無数の神々を信仰するヒンドゥー教の中で、インド各地自由思想家が誕生する時代に生まれた。彼は、伝統的な信仰とも、信仰の哲学的な理屈とも距離をとり、理屈や観念に溺れずに、雑念に囚われず「悟り」の境地に達することを目的とした。快楽でも苦行でもない、中道を目指すというものだ。仏教は、あらゆるものは相互関係(縁起)の中に存在し、全ては無実態であるとした。
仏教は本来、悟りタイ人のための修行道場として、戒律を厳しく守ることを求める宗教であった。
東南アジアなどのテーラワーダ仏教においては、修行者は200を超える戒律を守って暮らす。タイ仏教では、出家者は厳しい戒律を守り俗世から分離され、一般信徒は経済的に出家者を支えることで、その利益に預かることができる。
しかし、中国に伝わった段階で、家庭を棄てた人間を敬う習慣は根付かず、インド風の僧院生活は根付かなかった。また、自らの悟りを追求するばかりでは、他人に教えを説いて回った釈迦の本来のあり方に矛盾するという一種の開祖ルネサンス的な考えもあった。
日本では、徳川家などの厳格な統治機構により仏教の影響範囲が狭まり、伝統的な行事、信仰と合わさり葬式仏教化して言った。それでも、日本には仏教、儒教、道教、神道、民間宗教に加えて、〜道(花道、茶道、剣道、柔道)と言ったような〜道とつく精神的な訓戒を持っている習い事が多く、宗教の儀礼とほとんど区別がつかない。キリスト教やイスラム教のような明確な信仰対象を持って暮らしている人に比べて、「無宗教」を自認する日本人は多いが、それでも我々の文化的慣行には、実際にはそのほかの宗教的振る舞いの多くと通じている部分があり、儀礼的な形を重視する面など、宗教的情念が社会にあることは確かであろう。
余談だが、「忠孝」は儒教由来の思想だが、中国や韓国では家庭を大事にする「孝」の方が重視されるのに対して、日本では武士文化に見られるように「忠」を重んじるようだ。
抄読:学校・地域におけるメンタルヘルス教育のあり方
課題の調べ物中に、メンタルヘルス教育についてのわかりやすい総説を見つけたのでメモ
2022年度から新学習指導要領に、「精神疾患の予防と回復」が追加されたようですね。
小学校5年生の体育(保健領域):不安や悩みへの対処
中学1年生の保健体育(保健分野):ステレスへの対処
高等学校保健体育(科目保健):精神疾患の予防と回復
これまでに効果が確認されているメンタルヘルスリテラシー教育プログラムには、
「精神疾患の偏見の是正に関する内容」
「援助行動を促す内容/援助希求行動」
「精神疾患の偏見の是正に関する内容」
が含まれている
メンタルヘルスリテラシー教育を実施する上での課題は、コンパクトなメッセージ(精神疾患は誰でもなりうるので、不調を感じたら必ず専門家に相談するように)のみが先行し、不必要に若者の不安や不調を煽ること
オンラインで利用可能な教材としては、
がある。
これは、オーストラリアのMindMattersやイギリスのPersonal, Social and Health Education (PSHE) Association、カナダのTeenMentalHealth.orgが開発したThe Curriculum Guideに類似するものだ。
また、思春期の若者がどのような内容でも相談可能なワンストップの相談サービスも部分的に開始されている。
International&Online グループワークの難しさ
今日はグループワークの発表の日。
みんなに事前に繰り返して伝えた準備内容に従ってくれない子がいて、悲しい・・・
っていうのはもうどうでもいいくらい、インターナショナル&オンライン授業むずい!
授業開始時に、チームの子が出席してない!
私はその子のパートは独立しているから飛ばしてもいいんじゃないかと思ったんだけど、
タイ人の優秀な女の子が急いで他のチームがプレゼンしている間に間に合わせのスクリプトを作ってくれてことなきを得た。
(塗り絵の例えで、日本人は丁寧に完璧に端から塗っていって50%しか塗れていない一方、ドイツ人は多少は雑だけど100%とりあえず終わらせてるって言う例えを思い出した。何事も完璧を追求するのではなくて、間に合わせでもとりあえず形にする能力って大事。)
一安心して、あとは各自スクリプトを読むだけ・・・と思っていたら、パキスタンの国のパートに到達したところで訪れる静寂。
・・・
・・・・・・・
まさか授業の最初にいた子がここにきて行方不明になるなんて・・・!笑
ひとまず飛ばして、大慌てでその子のプレゼンを読解。(もちろんスクリプトはない。)
(その間カメラoffにするのを忘れたので、きっと鼻息荒く目をぎょろぎょろさせた私が画面にドアップ)
準備し終わったところで、何事もなかったように"I'm here~接続が悪かったんだYO!"と登場。
プレゼン自体は他のチームより高評価で結果オーライなんだけれど、私は日本のグループワークで味わったことのないタイプの苦労でヘトヘト。何回も時間制限のこと伝えたのに、、、とか、行方不明のインドの子とか、でも接続の問題なら仕方ないよね、いやでもだからスクリプト出してって言ったじゃーん!
などなど狭い心にいろんな疑問と後悔が押し寄せてきてモヤモヤ
していたら!
きっと私と同じが私以上に苦労して、チームを引っ張ってくれたタイの女の子が、グループラインで"Well done! 私たち成功したね〜!"と盛り上げてくれた。
これがあるべきリーダー!女神!尊敬!
あの子もきっと思うところはいろいろあるだろうに、すごい
これもマイペンライ精神の一環なのか?だとしたら早く私もその精神インストールしたい〜
今回のプレゼンテーション、トラブルの対応に追われて発表の内容自体はあんまり聞き取れなくて学びが少なかったけど、リーダーシップという意味ではすごく勉強になったなぁ。
日本との比較も踏まえて言うと
①みんなバラバラの意見を言うので、リーダーたるものみんな以上に勉強して知識をつけて、ある程度自分の中の方針を持っていないと議論が進まない。
日本だとある程度みんながみんなの意見を聞く中でまとめていく方向に話が持っていかれるけど、こっちだと本当にみんな自由!意見が出る頻度も多いし。
②指示ははっきりと出す&締め切りを守ってない人は名指しで。
関係性を気にしてウジウジしていたら、結局約束を守ってもらえなくて、結果良い関係性が築けないという負のループに。わかりやすく指示を出した方がお互いスムーズに話が進むことを発見。
③トラブル&うまくいかないことがあるのは当たり前!前兆を感じたら早めにアクションをとる。そして諦めないで、最後まで機嫌良くいる!
今後もこのメンバーで協力しなきゃいけないことは多いだろうし、みんなを気持ちよくさせるのもきっとリーダーの大切なお仕事なんだろうなーと反省。
まだレポート提出という課題があるけど、ひとまず一区切りついてよかった!
留学はじまっての1ヶ月間で、
人は思い通りにはならない
信じられるのは自分だけ
っていうのを叩き込まれている・・・
外国だからわかりやすいだけで、きっと人間関係って今までもこれからも本当はこうなんだろうな〜
他人と他人として自分と独立した存在だと認識した上で、それを尊重できると素晴らしいよね、などと思う日々。
芸能人の自殺
誰も読んでいないけれど、誰かに読んでほしくてきっとこの文章を書きはじめている。
最近の相次ぐ芸能人の自殺に触れるのは、あまりにもありきたりなことはわかっているけれども、自分が予想以上に暗い気持ちになっていることに気がついた。希死念慮なんてないはずなのに。自分と同じくらい死から遠いと思っていた人が、どういうわけか気付いたら向こう側にワープしているという事実が、曇った意識の奥底で、そんなに難しいことじゃないかもしれないという想像を刺激する。
テレビで繰り返し流される、存命中だったときの映像。それはついこの間何気なくつけたテレビでやっていた映画のワンシーン。いつテレビで再放送されてもいい作品が、再放送ではなくて故人を偲ぶ映像として使われていることの違和感だろうなのか、この胸を締め付けているものは。
映像の中の真っ直ぐな光を宿す大きな瞳、薄く艶めいてその顔を彩る唇。彼女が脱ぎ捨てた美しさを見るにつけ、「死は全てから開放してくれる」という人の言葉にうなづいてしまう。死んでも美しいなんて嘘だ。体は、心臓が動いてないと、血が細い細い血管を流れていないと、青く、硬く、やがて腐っていくのに。
繰り返し故人を偲ぶ映像が流れてただただ感傷的な気分にさせるテレビを消して、自死遺族を想像する。彼らにも映像を消してくれるリモコンがあればいいのに。
自殺未遂で捕まえられて無理やり沈静をかけて寝かせた患者を思い出す。何故自殺はダメなの、と聞く彼らは、答えを求めているのだろうか、我々を嘲笑っているのだろうか。
戦争は文化、即ちその土地に過去あった全ての人々の精神をも殺す
ベトナム人学生との会話
ベトナムはアルファベットのような文字を使ってるね
これはラテンから来てるんだ
え、こんなところに急にラテン!?
1664年かな、ベトナムがフランス領になってそれまで使っていた中国のような文字は廃止されたんだ。
そのために、古典などはもちろん、お寺などに書いてある文字も今のベトナム人は読めないのだそう。昔の人が永遠に残ると考えて苦労して建てたお寺の大事な言葉も外国語のように感じられているのは悲しいと思った。これも歴史の一部として捉えられるが、先の小林秀雄のいう想像力を働かせるならば、お寺を建てた人々、戦争で戦って負けていった人々はとても悔しく思っていることだろう。
また、ベトナム戦争(ベトナム人はWW2と言っていた。彼らの認識ではWW2なのだろう。)で南北に別れて戦ったが、今でも南と北は仲が悪いらしい。経済の中心は南だとか。
彼は南京大学に留学していたが、南京大学ではいたるところに日本人が中国人を虐殺している写真が大きく貼られているらしい。これを聞いて、南京大学に、そこまで反日感情を植え付けなくても…と少し気分を悪くしてしまったが、これは同胞が殺されたという悲しみを忘れないために、鎮魂の意味ももって彼らはやっているのだとも思うから理解するべきなのだろう。
あの時代にされるがままになっていたことの悔しさを、今そのようにしてしか返せないことに彼らはまだ怒っていてもおかしくない。例えば今が戦争の一年後なら私は気分を害さなかっただろう。なぜ、もう昔のことなのにと中国を非難することができるのか。時の流れに甘えず、しっかりと彼らの怒りを受け入れるしかないと思う。
学生との対話 小林秀雄
私として生まれてきた、私としてしか生まれ得なかったこの人生において、私としてどう生きるのか何をなすのか。
小林秀雄の名評論もまた、自分とは何かを模索し思案し続けた産物であった。
質問というのは、切実でなくては行けない。社会情勢だとか政治だとかについての意見ではなく、自分がどう生きるかというところでさっぱ詰まっての問いかけこそがいい質問。
いい質問をした時点で、答えは得なくても良い。
歴史を知るときに、その年表をしるだけでなく、その時その時代の人は何を考えるか
時代や人種が違っても同じ人間なのだから想像することは難しいことではない。
自分なら、ではなく、透明な自分になって、語り手の心に耳をすませる
その中に自分が見えてくる。
このような態度で歴史や本を読むことは、そのものが生々しく生きて感じられて面白いだろう。
無私になると他人が自分を映す鏡となるというのはよくわからなかった。
なぜ無私になると自分が見えるのだろうか。
しかしそこに彼が小説家ではなく評論家になっていった理由があるのだろう。
印象的だったのは、評論とは批判することではなく褒めること。褒めることで次につながるということ。私はどちらかというと批判することで次につながると思っていたので意外だった。
一つの物事の中から本当にいいところを見抜けということなのだろうか。
共感できたのは、主張しようと思って主張したことは自分ではない。隠そうとしても匂ってしまうことそのものが自分なのであるということ。
私は主張しなければ、意見を持たなければとなりがちなのでこの言葉は心に置いておきたい。